低能者の過去発言



出 典 低能者 過去発言
1946年8月号「世界(歴史教育について)」 井上清(いのうえ きよし) 日本の現状においては、何よりもまず、来るべきものの歴史的必然性を最もよく見通し、その学問的見通しに立って、革命を恐怖するのではなくして、それを鼓舞するものでなくてはならぬ。その最も徹底した、もっとも正しいものは何か。革命の火の中から生まれ、その歴史解釈、歴史的見通しの正しさが、すでに革命の試練に耐え、最近百年の世界史の発展そのものによって立証されている、革命的プロレタリアートの歴史理論に基づくものであろう。 
1950年1月号「世界評論」 羽仁五郎(はに ごろう) ソ連では、失業や恐慌は無くなり、労働者大衆の子女が高い教育を受け、子供たちのためにも託児所そのほか社会的施設が向上し、病気になれば病院に入ることもできるが、アメリカには失業や恐慌が続き、労働者大衆の生活は圧迫されている。
1952年4月号「改造」 柳田謙十郎(やなぎだ けんじゅうろう) (社会主義国においては)思想、言論、集会、結社等の自由に関しても、資本主義社会とは自ら異なった逆の限界がなければならず、社会を資本主義社会に逆転せしめ、革命の発展を崩壊せしめるような思想や行動に異常な警戒が払われねばならぬことは、世界に資本主義の勢力が厳存し、あらゆるチャンスをつかんで反革命の勢力をもりかえさんとしつつある現在の状況にあっては、なおやむを得ないことと言わねばならない。
1952年8月号「経済往来」 蜷川新(にながわ あらた) ソ連や中共には、この件(日本人捕虜の長期抑留)について、何らの不法も、過失も無いのである。この二大国は、社会主義及び共産主義を実行して、その抱容している人民、六億七千万人を大いに幸福ならしめている。それら二大国の進歩と文明とを、その人民の福祉のために、祝することが適法であり礼儀であろう。
1952年11月号「世界」 竹内好(たけうち よしみ) 革命に伴う混乱が、ロシア革命の時は非常にありましたが、今度の中国革命には比較的なかったということになると思います。民族性の違いもあるけれども、同時に歴史の段階の違いじゃないか。革命の進歩と見るべきじゃないかと思います。
1953年5月号「世界(恐怖から共存へ)」 丸山眞男(まるやま まさお) 第二次大戦の間にできた勢力圏の協定に対して、最初挑戦のイニシアティヴをとったのは西欧側だったということは、否定できないのではないかと思います。
1955年10月号「中央公論」 務台理作(むたい りさく) 社会主義社会においては、自由とは、社会主義を実現するための自由であるから、社会主義そのものに反対し、それを破壊しようとするような自由はすべて許されない。
1956年(昭和31年)5月「世界」 向坂逸郎(さきさか いつろう) 社会主義国が革命を「輸出」するだろうという考えは、わが国では保守的な方面でも、共産主義者と名のる方面でも行われたことがあった。中共が中国における指導権を確立した時、朝鮮半島でアメリカ軍が敗退しつつあった時、我が国の知識人の間には、いまに、中国から、朝鮮半島から「解放軍」がくるという噂が耳うちされた。
1956年11月「社会主義はどういう現実か」 大内兵衛(おおうち ひょうえ) スターリンの目標は1960年には達しられると言われていますが、そうなれば、ロシアの経済は、アメリカにも負けないほど強固な基礎の上に立つでありましょう。ロシアの経済学は20世紀の後半において進歩的な特色のある学問として、世界の経済学界で相当高い地位を要求するようになるだろう。こういう歴史の変革のうちに経済学者としていよいよその光彩を加える名はレーニンとスターリンでありましょう。
1959年3月号「中央公論」 安藤彦太郎(あんどう ひこたろう) (紅衛兵の蛮行について)中国人は芝居気がありまして、ベトナムを支援しようというデモの時などは、つけ鼻をしまして、アメリカ人の格好をした者を後ろ手に縛って、後ろからムチで殴る真似をして行くという道化をしますから、そういう道化を作ったデモがあったかもしれないとは思います。
1959年4月「三八度線の北」 寺尾五郎(てらお ごろう) 日本が東洋一の工業国を自負していられるのは、せいぜい今年か来年のうちだけである。ソ連はアメリカを追い越し、中国は英国を追い越し、朝鮮はその北半分だけで日本を追い越すとしたら、世界はどう変わるであろうか。
1962年「ソヴェト学入門」 野々村一雄(ののむら かずお) 70年代の初めにソ連工業がアメリカ工業へ追いつき、追い越し、人口一人当たりではそれよりやや遅れて、遅くとも70年代の終わりにはソ連工業がアメリカ工業に追いつき、追い越すだろう。
1962年「ソヴェト学入門」 野々村一雄(ののむら かずお) 自分たちの労働の成果を途中で失敬してポケットに入れてしまう連中がいないという確信、働けば働くだけそれが自分たちのものになるという確信、それがソヴェト経済躍進の秘密であり、ソヴェト経済の高い成長率の基礎である。
1964年「新しい家庭の創造」 田中寿美子(たなか すみこ) 世界を通じて、資本主義国で、家庭の危機が問題になっているのに比べて、社会主義国では、家庭は社会主義建設のための核になるものとして重要視され、国家の手厚い保護を受けているから、原則として、個人と家庭と社会とは矛盾したり対立したりすることがなく、一直線に連なっていると考えることができる。
1964年「新しい家庭の創造」 田中寿美子(たなか すみこ) (社会主義国は)人間による人間の搾取関係が基本的に制度として除かれた社会ですから、まじめな人間が失業して食えないという資本主義国と違って、不良少年が発生する経済的な条件は除かれています。
1965年(昭和40年)1月「世界」 竹内好(たけうち よしみ) 中国の核実験は、不幸な出来事でした。けれども、理性をはなれて感情の点では、よくやった、よくぞアングロサクソンとその手下どもの鼻をあかしてくれた、という一種の感動の念のあることを隠すことができません。中国の核実験の成功は、中国革命の有効性をこの上もなく雄弁に世界に示すでありましょう。
1966年(昭和41年)5月「週刊朝日」 竹内好(たけうち よしみ) どうも日本の指導者は大東亜戦争をつづける方向にいっている。
1967年12月17日号「朝日ジャーナル」 安藤彦太郎(あんどう ひこたろう) 文化大革命は三年目に入って、いよいよ深く人々の『たましいに触れ』ているようである。
1968年9月29日号「朝日ジャーナル」 新島淳良(にいじま あつよし) プロレタリア独裁は大衆独裁でなければならない。犯罪の調査も、判決も、執行も大衆がやり、義務労働を解除するのも大衆がきめる。しかも公安・検察・法院へ報告したり許可を求めたりする必要もない。
1968年9月29日号「朝日ジャーナル」 新島淳良(にいじま あつよし) 上海の工作機械工場では七千人の労働者が全部設計能力を持っている。すべての労働者がインテリゲンチアになり、世界水準の技術を身につけてゆくのが中国のねらいだ。これはまさにコミューン国家にふさわしい。
1969年1月号「世界(現実主義の幻想性とユートピアの現実性)」 いいだもも ベトナム革命の革命的波及力という<革命的ドミノ理論>に、私たち自身が立つべきなのです。一般的に言えば、平和であろうと戦争であろうと「革命」は正しいことであり、戦争であろうと平和であろうと「反革命」は正しくないことであるという〜私たちの主体的価値を導入すべきなのです。
1969年「東大闘争・教官の発言」 和田春樹(わだ はるき) 全共闘の運動が最終的には自らを何と規定して国家権力への武力対決に進んだのか、それは必ずしも十分に明確ではない。だが昨年(昭和43年)12月末、大学当局と全共闘が最終的に決裂した際、全共闘が東大闘争に則して主張したことには正当性があったことを私は認める。
1969年3月号「世界(自分に立ちかえる)」 小田実(おだ まこと) 安田講堂をめぐる戦い(東大安田講堂事件)の中で、学生たちが用いた様々な手段は決して暴力ではなく、抵抗権の自然な発現である。
1971年9月号「現代の目」 井上清(いのうえ きよし) 文化大革命は、結局、ソ連がつまずいたことを反面教師として、資本主義が復活するのを防ぐ保障をうちたて、社会主義を発展させる、そのような人間、そのような精神をつくり出すということだと思います。こうしてソ連よりもはるかに進んだ社会と人間が中国にすでに出来ており、かつその方向にのみ人類の未来があるのだから、文革の中国こそ現代の世界史の頂点である。
1972年7月号「潮(北ベトナム民衆はなぜ強いか)」 松岡洋子(まつおか ようこ) 侵略戦争に反対するということは、またみずから侵略戦争を仕掛けるものではないことも意味しなければなるまい。ベトナム民主共和国の場合には、ついてにいうなら中華人民共和国の場合にも、侵略戦争はやらない国内体制になっている。つまり、正義の立場に立ち、歴史の法則にかなった生き方をしているといいかえてもよいであろう。
1972年12月号「世界(日朝交流への課題)」 岩井章(いわい あきら) あの国(北朝鮮)では根本的に知育、体育、徳育の三つを強調する。その根本になっているのは人間の尊重だ。そして社会主義、共産主義の思想を子供のころから本当にあらゆる形で討論したり、議論したりしている。
1974年10・11月号「潮」 西川潤(にしかわ じゅん) 各地で文革による変化の巨大さを見ると、それに比例して犠牲がいかに少なかったかに驚かされる。そして『犠牲者』も毛路線に従って働くことを決意した場合には、りっぱに社会の中で職を与えられて第二の人生を踏み出す。ケ小平副首相はその典型の一人だろう。
1976年2月号「世界」 西川潤(にしかわ じゅん) この国(北朝鮮)は既に立派な工業国であり、しかも外国に依拠せず工業化を遂行すると共に、工農の同時発展と社会的諸格差の縮小と民衆生活の向上をはかる、極めてユニークな発展路線を歩んでいる国。
1976年2月号「世界(北朝鮮の経済発展)」 西川潤(にしかわ じゅん) (北朝鮮の1970年代前半の)工業総生産額は年17%の伸びで、60年代の伸び率12.7%を大きく上回っている。〜また社会主義経済管理組織が安定し、経済規模が拡大しても発展速度は低下しないとする金日成理論が受け入れられ、再び千里馬精神の下に保守主義を打ち破る三大革命(思想・技術・文化)が展開されたことが重要である。
1977年(昭和52年)4月「世界」 坂本義和 (さかもと よしかず) 朝鮮戦争を考えてみますと、あの時期には中国で革命が成功して、あと台湾の解放だけが残っているという状況でした。その時に朝鮮戦争が起こったわけですが、それは「侵略戦争」だったということではなく、一種の「解放戦争」という意味を少なくとも北側で与えていたということは、その通りに受け取っていいと思います。
1977年(昭和52年)7月「諸君」 向坂逸郎(さきさか いつろう) ソ連はですよ、日本とは比べ物にならない。ソ連人の教養というのは、日本とは比べ物にならない。はるかに高いのです。自由もね、日本とは比べものにならない。思想の自由も、日本とは比べものにならないくらいある。
1977年8月「私と朝鮮」 小田実(おだ まこと) 彼ら(北朝鮮人民)の暮らしにはあの悪夢のごとき税金というものがまるっきりない。これは社会主義国を含めて世界のほかの国にはまだどこにも見られないことなので特筆大書しておきたいが、そんなことを言えば、人々の暮らしの基本である食糧について北朝鮮がほとんど完全に自給できる国であることも述べておかねばならないだろう。
1979年3月9日「北海道新聞」 森嶋通夫(もりしま みちお) 不幸にして最悪の事態が起れば、白旗と赤旗を持って、平静にソ連軍を迎えるより他ない。34年前に米軍を迎えたようにである。そしてソ連の支配下でも、私たちさえしっかりしていれば、日本に適合した社会主義経済を建設することは可能である。
1984年1月号「月刊社会党 非武装中立をいかに進めるか」 小林直樹(こばやし なおき) 仮に二、三十万人のソ連軍隊が日本を占領すると仮定する。しかし、日本の社会に文化が華開いており、自由が満ちあふれ、そして日本人が毅然とした自主的な姿勢を持って、不正な支配に屈従しない国民として生きていたならば、彼らは占領者として自らを恥じ、ひいては日本から学ぶようになるだろう。
1988年(昭和63年)4月「孤立する日本」 安江良介(やすえ りょうすけ) 北朝鮮では車の私有は認められていなく、そのためピョンヤンの街は実に美しい。


参考文献「悪魔祓いの戦後史」(稲垣武著、 文藝春秋1994)、「悪魔の思想」(谷沢永一著、 クレスト社1996)


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